1527年、いまでは世界遺産にも登録された島根県の石見銀山が発見・開発開始。

博多商人の日本海沿岸における広域的な経済活動がこれを推し進め、同地域では銀の採掘が活発となります。

採掘後の銀の精錬につかう灰吹法は、1533年に神屋寿禎が博多から2人の技術者を連れてきたことで石見銀山現地での精錬が可能に。

かくして「倭銀」は国際通貨として東アジア海域各地の通称の場で広く取り交わされることとなり、1530〜40年代には銀の海外への大量流出と共に外国産品の大量流入がスタートします。

日本から中国、当時の「明」への銀流入は15世紀末から16世紀はじめに。

室町幕府の国内支配の弱まりに伴い、足利義稙と足利義澄は各地大名に明との貿易許可証である「勘合」を分け与えることで求心力を維持しようと目論みます。

幕府から勘合を得たのは畿内の細川氏、西国の大内氏、大友氏ら。

しかし、遣明船の派遣を巡って激しく争った細川氏と大内氏は1533年(大永3年)の第17時次派遣の際、明入国の玄関である寧波で武力衝突を起こしてしまいます。(寧波の乱)

明側にも死傷者を含む深刻な被害を与えたため、日明交流はしばらく途絶えることとなってしまいました。

明との関係が修復されてからは第18次・第19次の2度にわたって大内氏が遣明船の派遣を独占。

この第18次の遣明船(1539年出発)にて、はじめて銀を使用した事例が文献として記録されており、博多商人や堺商人が寧波や北京までの往復路(蘇州・揚州・常州など)で銀を使い、唐物(中国製品)を入手しているとされています。

明は皇帝の使節以外の貿易を禁じた、「海禁政策」を行なっていましたが、これにあらがう中国商人らが手を組み密貿易集団が形成。

のちに「後期倭寇」と呼ばれることとなる彼らは、日本の銀と中国の生糸の交換を主とした密貿易活動を展開しました。